正解:①
解説:正解は虎千代です。ちなみに虎寿丸は島津義久、犬千代は前田利家、奇妙丸は織田信忠でした。
正解:②
解説:長野県長野市の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に囲まれた三角地帯の地名をいいます。1553年〜1564年までの12年の間に5回戦いましたが、決着着かぬままに終わりました。
正解:④
解説:今川氏と北条氏は同盟を結び、武田信玄を苦しめようと塩の供給を経つ戦略に出ました。海に面していない武田信玄のいる甲斐の国で非常に苦しい状況となりました。その時、塩を送って、信玄を助けたのが敵対関係にあった上杉謙信です。「敵に塩を送る」とは、敵対関係にある相手でも、困って苦しい立場にある時には助けてあげることの意味。しかし、この意味は後から作られた美談との説があり、真相はどうなのでしょうか・・・?
正解:②
解説:上杉謙信の血液型は、AB型だそうです。誓文(せいもん)の血判によって、判明しました。
正解:①
解説:上杉謙信が生涯信仰した毘沙門天(びしゃもんてん)の「毘」の文字を旗印と掲げました。謙信は、自らが毘沙門天の生まれ変わりと信じていました。ちなみに毘沙門天(梵名:ヴァイシュラヴァナ)は、仏教における仏で四天王の1つの武神。
正解:④
解説:上杉謙信が生涯の中で、虎千代(幼名)→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→不識庵謙信(法号)の順で改名しました。
正解:①
解説:長尾 為景(ながお ためかげ)は、越後の戦国大名で上杉謙信の父です。
正解:④
正解:④
解説:上杉謙信にまつわる逸話、伝説、俗説は、数多く存在するようです。女性説は、その中の1つです。
正解:④
解説:関東管領(かんとうかんれい)とは、南北朝時代から室町時代にかけて室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方(かまくらくぼう)を補佐するために設置した役職名のことです。
正解:③
解説:1577年、加賀国(石川県南部)の手取川で上杉軍(20,000人)と織田軍(織田信長、柴田勝家:48,000人)と戦いました。結果は、上杉軍が織田軍を撃破したとされています。
正解:①
解説:問題1 謙信公が上杉家の名跡を譲り受けたのは、1561(永禄4)年のことです。それまでは改名をせず長尾景虎と名乗っていました。 問題2 謙信公の死後、謙信公の甥である上杉景勝公と関東の北条氏の息子である上杉景虎公が、戦を始めました。結果、上杉景虎公は敗北し、鮫ヶ尾城で自害しました。 問題3 川中島の戦いは5回中4回目が最も激戦だったと言われています。両軍ともに戦略を尽くしましたが、引き分けに終わりました。
正解:②
正解:②
正解:④
正解:③
正解:①
解説:法成寺入道左大臣日記は、御堂関白記の正式名称
正解:④
解説:実際には忠文到着前に平貞盛、藤原秀郷が鎮圧していた。
正解:④
正解:①
正解:④
正解:②
正解:④
正解:③
正解:②
正解:④
正解:②
正解:④
正解:①
正解:①
解説:シャチのうろこは53枚、当時の価格で80万円、現在なら3億円相当になる。
正解:①
解説:ちなみに溶かされたのは終戦前日の8月14日だった。
正解:①
正解:①
解説:当時大学1年生で同時に鹿苑寺の徒弟であった。
正解:③
解説:足利義輝、従二位参議・近衛中将。一条兼定は官職で言えばトップの権中納言で従三位。武田晴信、従四位下大膳大夫・信濃守。北条氏康、従五位上左京大夫・相模守。上杉輝虎、従五位下弾正少弼。
正解:①
正解:④
正解:③
解説:賭博は花札。退職後は貴族院議員。衆議院議員を歴任した。
正解:②
解説:ちなみに日本側はその他の艦船も沈没したため4000人以上亡くなっています。なお米軍の死者は12人です。何とも無謀な戦いですね。
正解:②
解説:徳島県の坂東収容所のドイツ人捕虜によるもの。近隣住民を招いて演奏会を開いたりし交流は盛んで、住民は彼らを「ドイツさん」と呼び親しんだ。当時の所長の松山大佐は「捕虜たちは犯罪者ではなく愛国者である。敗者には武士の情けで接したい」と述べ、厚遇した。
正解:④
解説:実は伊藤家とは難波家は親戚。犯行前に伊藤家から借りたものだった。
正解:③
解説:おそらく皇室を呪って崩御した崇徳上皇に対する儀礼がこの頃まで残っていたと思われる。
正解:②