東軍・徳川家康と西軍・石田三成が戦ったことで知られる日本史で最も有名な戦国武将の戦いです。教科書でも習ったこの天下を分けた戦いについて、出題します!

東軍の武将が1名います。さて、誰でしょうか?

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ノーヒント!

難易度:


出題数:7859人中

正解数:5843人

正解率:74.35%


作成者:福のっぴー (ID:808)

出題No:11732
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①織田秀信
②滋賀県
③静岡県
④長野県
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正解:岐阜県
解説:関ヶ原の戦いは、関ヶ原だけでなく日本全国で戦闘が行われました。その中でも大軍勢がぶつかった主戦場は、岐阜県不破郡関ケ原町にあります。
①9月15日
②4月1日
③岐阜県
④1月5日
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正解:①
解説:関ヶ原の戦いの合戦が行われたのは、1600年(慶長5年)9月15日です。
①夜9時頃
②朝8時頃
③昼12時頃
④夕方16時頃
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正解:②
解説:当日は目の前が見えない程の朝霧が出ていました。朝5時頃に全西軍が布陣完了、午前6時頃に全東軍が布陣完了します。しばらく両者にらみ合いをしていましたが、霧が晴れ始めた午前8時頃に井伊隊が西軍の主力である宇喜多隊に向けての発砲します。これにより戦いの火蓋が切って落とされました。
①約1年間
②約2日間
③約3ヶ月間
④6月20日
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正解:約6時間
解説:朝8時に戦いが始まりましたが、昼過ぎには東軍・徳川家康の圧勝となりました。
①伊達政宗
②約6時間
③大谷吉継
④小早川秀秋
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正解:④
解説:朝8時の戦闘から西軍の小早川隊15,000人の軍勢は、全く動きませんでした。ようやく動き出したのは、正午過ぎのことです。前々から徳川家康と内応していた西軍・小早川秀秋は、見方であるはずの大谷吉継に向かって戦闘を開始しました。この裏切り(寝返り)行為が勝敗を分けたと言われています。
①徳川家康の家来となった
②毛利輝元
③捕まり処刑された
④お坊さんになった
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正解:③
解説:9月21日に石田三成は東軍の追っ手に捕らえられます。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊(えけい)と共に堺、大阪、京都と引き回しにされた後、京都の六条河原で斬首されました。
①石田三成
②農民になった
③毛利輝元
④小早川秀秋
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正解:③
解説:東軍の総大将は徳川家康ですが、西軍の総大将は毛利輝元。石田三成は西軍の中心人物(参謀)です。
①天下布武(てんかふぶ)
②厭離穢土(おんりえど、えんりえど)
③毘沙門天(びしゃもんてん)
④大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)
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正解:④
解説:石田三成の旗印は、大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)、もしくは大吉大一大万(だいきちだいいちだいまん)です。「万民が一人のため、一人が万民のために尽くせば太平の世が訪れる」という意味とされています。
①山内一豊
②加藤清正
③長宗我部盛親
④真田昌幸
①石田三成
②脇坂安治
③大谷吉継
④毛利輝元
①笹尾山
②伊達政宗
③南宮山
④天保山
①山内一豊
②黒田長政
③高野山
④大谷吉継
①徳川秀忠
②北条氏康
③石田光成
④武田勝頼
①戦いのこと忘れたから
②遠い所にいたから
③源義経
④合戦の用意がすぐできなかったから

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説明:尾張の小大名であった織田信長の名を戦国の世に広めた戦。若き信長が大逆転劇を演じた桶狭間の戦いについて、出題します!
①岐阜県
②愛知県
③静岡県
④他の戦いに参加したから
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正解:②
解説:桶狭間の戦いがあったこの「桶狭間」は、現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区有松町の2箇所に古戦場跡があります。はっきりとした場所はわかりませんが、この近辺、もしくは愛知県であると伝えられています。
①服部一忠(服部小平太)
②毛利新助
③滋賀県
④織田信長
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正解:①
解説:今川義元に一番槍をついた武将は、服部一忠(服部小平太)ですが、ひざを斬られ、一番最初に義元の首をとったのは、毛利新助でした。
①簗田正綱
②木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
③服部一忠(はっとりかずただ)
④簗田正綱(やなだまさつな)
①毛利新助(もうりしんすけ)
②約18000人
③約800人
④約3000人
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正解:④
解説:今川軍の戦力・約25,000人に対して、織田軍の戦力は約3000人と言われています。織田軍の奇襲攻撃により、総大将の今川義元は戦死しました。
①1630年
②約10000人
③1467年
④1560年
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正解:④
解説:桶狭間の戦いは、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に行われた合戦です。
①沓掛城(くつかけじょう)
②知立城(ちりゅうじょう)
③岡崎城(おかざきじょう)
④掛川城(かけがわじょう)
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正解:①
解説:沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛(現在:愛知県豊明市沓掛町)にあった城です。現在は、「沓掛城址公園」として城跡が残っています。
①1543年
②夜中の3時頃
③夜の21時頃
④昼の14時頃
①賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)
②折敷畑の戦い(おしきばたのたたかい)
③朝の6時頃
④姉川の戦い(あねがわのたたかい)
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正解:田楽狭間の戦い(でんがくはざまのたたかい)
解説:今川義元が討たれた場所は桶狭間の中の「田楽狭間」と言われていることから、この名が別名となっています。
①尾張で鷹狩りを行うため
②大阪の堺に行くため
③九州に出兵するため
④京へ上洛するため
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正解:④
解説:今川義元が京へ上洛するためといわれていますが、いくつかの説があるのでないかと言われています。
①31歳
②田楽狭間の戦い(でんがくはざまのたたかい)
③42歳
④58歳
①26歳
②18歳
③32歳
④26歳